なんとなくカレーライスを作る日々

「いらっしゃいませー、お客様2名様のご来店です」

若い女の子の声が店内に響き渡ると、キッチンにいた他の従業員も「いらっしゃいませー」と声を合わせて元気よく言い、その時の店内の雰囲気と空気感が何か好きだな、とその瞬間に私は思った。

家が近いからと3時間拘束でレビューも良いといった理由で、すきまバイトアプリで入ったカレー屋だった。バイトの業務は単純明快で、お皿をひたすら洗って食洗機にかけるだけだった。31歳既婚者2児の子持ちの私は専業主婦歴4年近いし、接客の仕事をいきなりやるのも引け目があって、飲食店の洗い場という裏方の仕事を選んだ。コミュニケーション能力に不安があったからである。無口な夫とはコミュニケーションらしいコミュニケーションをあまりとっていない。それを人に話すと「それってどうなの」と言われるけれども、彼曰くそれは普通であって、それでも円満らしく、私もそれだって円満だと信じ切っていた。朝起きたら無口な夫がいきなり芸人ばりのコミュニケーション能力になるはずがないし、求めても仕方がないものを求めたってどうしようもない。まあ私も欠点だらけで人のことどうのって言えないし。テレビを見ながら一方的にテレビに話しかけると、今日の私テレビとしか話していないなとか思うけど、都心に新築3LDKの戸建てを買ってくれてマイホームを手に入れた私は文句など言えない。億超えの住宅ローンを払える収入の男にこれ以上の何を求めたら良いのだろうか、不満を言った途端に烏滸がましい傲慢な人間に成り下がる。家賃4万の風呂トイレ一緒の蟻が出る1階のアパートに2年以上住んでいた日々のことをあれこれ思い出す。切れた電球の取り付けすら出来なくて暗い家で1ヶ月以上過ごしたこと、ストロングゼロを3缶飲んで酔って風呂に入って死にそうになった日のこと。夜中に洗濯機を回す隣の家の中年デブ、あんな末路は辿りたくない、私は絶対ハイスペと結婚して高級マンションに引っ越す、そう意気込み、キャバクラで働きながら婚カツパーティーに通った。商品は鮮度が命、見た目も学もない私には若さという切り札しかないのだと実感した。商品は婚カツパーティーの会場で男に点数づけされ、値踏みされる。中学受験の模試のテストの結果でこの学校しか受からない、第一志望はC判定だ、夏期講習頑張ったのになんで!お兄ちゃんは名門校に受かったのに!母親の金切り声を思い出しながら名門校に通えなかった青春時代を思い出す。人生は点数付けされ、順位や優劣をつけられることの連続だ。ブスは早く結婚相手見つけな、若ければなんとかなるからと言っていた母親の忠告を受け入れ、私は27で結婚し28で第一子を妊娠出産し29で第二子を妊娠し30でマイホームを手に入れ2人目を無事に出産し終えた。授乳が終わり3カップ以上減ってぺたんこになった胸を鏡越しで見ながら「女としての人生はもう終わった」のだとと悟った。ブスでも若くてEカップあった私はそれなりに男は選べてきた。もちろんモテるような人は論外でそれなりに見合う陰キャとか根暗だけど。くそみたいなヤリモクだっていたけど。まあそれでも誰からも相手にされないよりはマシだし相手をどうこう言えて選べる立場でもないし。夫は痩せてる女が好きだと言っていたからとりあえずは痩せた。面倒で夕飯食べなかったらみるみると痩せた。158センチ45キロ、比較的細い身体は軽いし服も何だって入る。すとんとしたワンピースだと貧相な胸が目立つから盛れるブラするか、とか考えてる自分が惨めで、痩せたんだからそれよりも褒めてよ、認めてよと思った気持ちは花火のように打ち上げられ散って、ただの自己満足に過ぎないと悟って苦笑して、ひたすら豊胸について調べたけど、脱ぐことなんてないしもういいやと諦める。シリコンがいいのかヒアルロン酸がいいのか脂肪がいいのか少ない脳みそで考えるのがもう無駄だし疲労でしかない。女の人生はあっけない。豊胸して巨乳になってもメンテ地獄だし胸ばっか見てるような変な男しかよりつかなくて、40後半にもなればナンのように垂れ下がった乳になり温泉で憐れみの目で見られるのだろう。いずれは老いる、子供を産んでいないハリのある綺麗な若い女の身体を、かつての自分の姿と重ね合わせながら横目で見るのだろう。

なんかもう何にもなれない。子煩悩な肝っ玉母ちゃんにも、教育ママにもなれない。私は結局何にもなれていない。子供を世話するのに追われて気づいたら夜になって21時には寝室に倒れ込んで意識失ったように寝てしまう。ただただ育てるということしか出来ない。アンパンマンカレーをチンしてスティックパンをあげることしかできない。大阪2児餓死事件の母親との違いは一体なんだろう。父親がまともだということだけではないのだろうか。収入が良くて怒ったこともないような夫は情緒が安定していて、片親だけでもまともな所に、救いはある。そう思った瞬間に自分の中の何かが崩れて頭から後ろに真っ逆さまに倒れる自分の姿が脳裏に浮かんだ。

カレーライスを作る日々は続いている。気づいたら履歴書を書いて面接を受けていて、カレー屋でバイトをする主婦になっていた。それらの行動は直感でもあり、本能でもあったのかもしれない。すきまバイトのアプリでバイトをした日から、ここで私は働くべきなのだと吸い寄せられるように面接の電話を入れて、面接をした。カレーの盛り付けを淡々とこなしながら、カレーライスを作る日々が日常に付け加われた。

「俺ん家来ませんか」「鳥籠の中の鳥だから」「男がいないと何も出来ないような女はださいっす」

なんか色々な言葉をかけられたけど忘れたと思ったら思い出したり記憶が辿々しい。彼と初めて会ってからまだ3ヶ月経ってないのに毎日は濃くて、手が触れるか触れないかでも嬉しかったけどとりあえず話せれば楽しくて、話せなければ悲しくて、シンプルにそれだけ。

そんなの男で現実逃避してるだけだし、ちゃんとした母親で24時間いたいのに全然出来ない。

Coccoの歌詞で、すべて知ってたそれでも触れた他には何も見えなかったってある。

悪いけど手触りますって言われた時何も嫌な気はしなかった。だから次触られた時は握り返した。いつも女の影があって、そんなの未婚だしモテるから当たり前で、辞めた女の子はそんな彼と一緒にいて辛かったと思う。何年も働いていたのにあんな辞め方したくなかったと思う。なのにどうして私は想像力がなかったのだろう。想像力すら打ち壊すほどの効力のある麻薬物質を同じ空間で強制的に吸わされてる。でも途中からは自己意思に基づいてそれを吸引することになった。辛いとわかってもそれ以上の多幸感を享受出来るから。一瞬でも楽になりたくて逃げた、薬物中毒者は皆そう言うのだろうか。でもそろそろそんな時間も終焉に近づいていて、不倫しないで良かったー離婚しないで良かったー普通で良かったーと心の中で言い訳をしながら、彼の持って来た愛妻弁当の中のプチトマトを遠目から茫然と眺めることしか出来なかった。