春が来て本当に良かった

春になると思い出すのは、あっという間に散ってしまう桜と、憂鬱な生ぬるい風。
だけど春は毎年比較的良いことが多くて、私でも幸せになれるんじゃないかという期待が一瞬だけ生まれてしまう。
テレビが見れなくなって放置している私の暇潰しは、専ら読書になった。OLを休職して1年が経過して、これで良かったんだよね、と自分自身を納得させている。好きなだけ眠れて、好きな時間に好きなものを食べれる幸せ。元々失うものなんてなかったのだから、これはこれで良かったのだと思いたい。
大学に入学した春、違う学科の異性を好きになって、処女でどうしたら良いか分からなかった私は、コンビニで彼をよく待ちぶせしていた。一人暮らしの彼はコンビニ飯ばかりと言っていたから、コンビニに行けば会えると信じて。(真面目に授業受けろよ)会えたら偶然を装って、話しかけた。
「わー美味しそうなパン。」
「このカップラーメン美味しいらしいよ。」
ただただ一目会えたら嬉しい、なんて恋愛はこれからもうすることはないだろう。あわよくば、話せたら一日中ルンルンだ。
いつも一緒にいる男の子の顔も覚えたし、女の子とコンビニに来ることはないから、安堵していた。
しかし、のちに彼は同じ学科の女子アナっぽい可愛い子と付き合うことになる。メールが来る度に嬉かったことも、mixiで日記を書いたら足跡が来て嬉かったことも、私は忘れない。そのことをずっと引きずりながら、18の夏に私は適当な男で処女を捨てた。
新卒の春は就職先の研修で1週間京都に行った。毎日くたくたで、実家に帰りたかったし、人間付き合いはダルかった。くっそ、どうして就職なんかしないといけないんだ、と思いながらも同期と仲良くなり始めていた。女の子は専門卒のギャルと体育系の大卒ギャルが固まっていて、私は心理学部の子と、女子大出身の大人しい子と仲良くなった。鏡に映るのは、不自然なくらいに黒い黒染め後の髪に、似合わないスーツ。滑稽だ。ブリーチした汚い茶髪に、ゴスロリを着ていた私はもういない。大学に戻れることはないんだと思うと、ただただ絶望しかなかった。未だに学生の頃の夢を見るのは、学生時代に未練があるからだろうか。同期16人で写真を撮ろうよーとコミュ力のある男子が言うと、私はダラダラと向かった。太って、パンパンの顔を写されたくないから、顎引かないと。写真を撮るときにいきなり肩を組んできたイケメンはチャラそうで、正直良いイメージがなかった。こいつは自分が好きでたまらないんだろうなと直感で感じた。だから私は冷たく接していた。可愛いねと冗談ぽく言われたときに嬉しかったけど、あーそういうの別に大丈夫だから~と軽く流すふりをした。
でも家が近所で一緒に帰っていくうちに色んな面を知れて好きになったし、新卒の研修のときはいつも一緒にいた。新卒のメンバーで呑むことになった日はベロベロで、帰りが一緒だったから私たちは自然とホテルに行っていた。―なんてことはなく、手を繋ぎながら家のマンションに送ってくれて、他愛もない内容のLINEを毎日した。黒髪が好きだと言っていたから黒髪でいようと思ったし、会社に行くエネルギーだった。まあ別の同期の男子から中学の頃の地元の彼女とより戻したって聞いて沈没するんだけど。飲みの帰りに大学の頃の友達に泣きながらそのことを電話をしたのは、今ではネタになっている。
とまあ、叶わなかったからこそ美化されている思い出が沢山ある。ワンチャンした男やセフレのことなんかわざわざ思い出すことなんてほぼ皆無に等しいのに、不思議なものだ。
今年27の私は、そんなエネルギッシュなはずもなく……。婚活パーティーでカップリングした東大卒とイタリアンに行ったり、一橋大卒と和食を食べに行ったり、そんなことばかりしていた。はあ、まだ婚活市場では若い部類だからちやほやされて良かった。数年後のこと?考えたくない……。いくら学歴コンプとはいえ、学歴だけで男を見るような、視野の狭い女である。学歴はいーんだけどデブだから性欲わかねー。結婚だけしてくれねーかな。と思っても上手くいくはずもなく。
「わー。ちょーすごーい。」
次のデートに繋げるためにキャンキャン甲高い声を出して上目遣いしつつニコニコするものの、これじゃない感が強い。だるいしこんなのもうやめてぇよと思ったときに知り合ったのはくそタイプの年下で、一目見たときからあー早くヤりたいなーとしか思えなかった。付き合うとか、結婚なんてどうでもいいから、すっ飛ばしてセックスしたい。いやいや、付き合えたら嬉しいだろうけど烏滸がましいし、とりあえず一発ヤったらこの気持ちの高揚は落ち着くだろう。
今までは、向こうから求められていた。それが当たり前だと思っていた。だってこっちは女だし、Eカップだし。そりゃタダマン出来るならしておこうと思うのが性欲満載である男だろう。(何様だよって感じですな)しかし相手の下心が分かった瞬間に面倒になるし、こっちにメリットねーし、と考えてしまう。
でも今回だけは違った。なんとしてでも持ち帰られたい。直感がそう言うから、私はそれに従った。顔タイプで性格は草食系ってもろタイプだわどうしよう。酒をほどほどに飲み、勢いで自分から手を繋ぎ、満員電車でとりあえず抱きついて、酔ったアピールして、家に転がり込んだ。ただの発情期のメス豚だ。相手は草食系と思ったわりに、3回戦したがるから若いなと思った。ユルいと思われたら嫌だから、早くイってくれることに安心した。大丈夫、まだ下半身の使い道はある。
私はヤりそうでヤらないヤる前の空気が好きで、事後はあまり好きではない。向こうが終わってぐっすり眠ってるときに時計を見たら3時半だった。仕事終わりの金曜日によくここまで頑張れるな、年下だから性欲の塊でもある年頃だよね。化粧を落としたいなとか思ったけど、部屋を見渡した限り化粧落としはなさそうだった。昔から異性の家に行くと見るのは、女の影があるかないか。露骨に綺麗だったり、ナプキンや化粧落しが置いてあると他にも女がいて遊んでいるのだろうな、と静かに悟った。相手がどうでもよければ無視して、相手に執着心があれば、自分の髪の毛を大量に落として、他の女に女である自分をアピールした。3回目のデートまで性行為はしない、みたいなルールを設けている人は少なくないだろう。1回目のデートでヤっても軽く見られたりセフレ要員になるかもしれない、という理由で。それは自分を高く見せるために大切だと思う。でも私は、もう二度と会えなくなるかもしれない相手で、繋ぎ止める為なら全然セックスしてしまう。自分の直感を信じたい、せっかちかもしれないけど。今までの経験上、それでも続くときは続く。細く長くであっても。好きな人が自分を好きでなくても、無料デリヘル本番も出来てコスパ良いわーって理由ででも会ってくれたら、会える口実が出来たら、凄く嬉しいと思う。
ずっと家にいても、男には賢者タイムがあるからヤった女がいても邪魔だろう。私は空気を読んで適当な理由をつけて、始発で帰るわーと言った。駅まで送ってくれたけど、帰り道は肌寒かった。じゃあねと言うのと同時に踏み切りが閉まったから、振り返らずに電車に乗った。酒は抜けてないし、太股は痛いし、ただただ家のベッドで寝たかった。彼は気を使って腕枕をしてくれたけど、めんどくさかっただろう。
毎回思うのは、「また会おうね」って言葉が社交辞令か、本音なのか。でも、そんなの考えること自体が、めんどくさい。だから、下半身で解決しようとしてしまうのか。

金原ひとみの小説の『アッシュベイビー』を私は読み返す。もう何十回も読んだ。今までの人生で、おそらく一番読んだ小説だろう。読むたびに解釈が変わるから、小説は好きだ。さっき書いたようにテレビが見れないから本ばかり読んでるけど、綿矢りさの小説も読んだ。金原ひとみ綿矢りさの二人が20歳とかそこら辺で賞を取ったのは、10年以上経っても印象に残っている。
『アッシュベイビー』の好きな台詞がある。
「私の心は射精してもらえない。彼は私の心に射精しない。もう、挿入すらしない。私は泣きそうだった。泣いてしまいそうだった。」
執着して、キスもしてセックスもして結婚もしたけど、距離が縮まることがないことへの葛藤だろうか。主人公はヤリマンだし、太股を包丁で刺すし、キャバクラでは売れてるけど問題は起こすし、クレイジーだ。いや、クレイジーという言葉で片付けるのもどうかと思うけど、もしかしたら繊細すぎる裏返しなのだろうか。
「籍を入れても、やっぱり私たちは一歩も近づけない。彼は心を開いてくれないし、心を開かせてくれない。それでいいのかもしれない。だってもし心を開いてしまったら、彼は私を一生殺してくれないだろうと思うから。いや、私はこんな言葉で逃げているのかもしれない。本当は心を開きたいのに、拒否されるのが怖くて殺して欲しいという思いに逃げているのかもしれない。本当は、彼に自分を全て見せて、見せ尽くして、それでいて愛して欲しいなんて傲慢な思いを持っているのかもしれない。いや違うかもしれない。本当はいつまでも拒否し続けて欲しいのかもしれない。そしてこうやっていつまでも私を軽く受け流して欲しいのかもしれない。だってわかってる。結局、私たちはセックスをして、キスもして、結婚までしたけど、距離は全く近づかない。そして結局なんの意味もない。クスクス笑うと、村野さんは鼻で笑った。私が今どんな気持ちなのか、彼は鋭く読んでいるのかもしれない。むしろ、私がそんな気持ちになるのを知ってて、結婚を承諾したのかもしれない。だとしたら……それでも私は彼が好きなんだろう。」
「こっちが求めてるんだ。私が求めてるんだ。私の方が求めてる。だから私に与えられるのは当然なのに。だのに私には残念賞しか当たらない。ビンゴには一生行かない。宝くじも一生買わない。競馬も、スロットも、競輪も、ロトも、何もやらない。だから私に最高の死を下さい。彼の手から与えられる、唯一の幸せを私に下さい。ビンゴ、と叫びたいのです。ビンゴ、っしゃあ。と、ガッツポーズで彼を手に入れたいのです。」
物語は突然終わる。
「何者にも存在がなかったら私は何者でも許せるのに。何だって許せるのに。それでも私は村野さんの存在を信じる。存在なんてなかったらいいのに。いや、でももしかしたら村野さんはいないのかもしれない。いなかったのかもしれない。ここには、今この部屋には村野さんはいなくて、村野さんに対してはただ好きですという言葉しかない。ああもうすでに私は、灰なのかもしれない。村野さんは私を吸いきってしまったのかもしれない」
執着していた村野さんは、最初からいなかったのか、幻想の存在だったのか。それでも主人公は村野さんに殺してもらえたのか。それが分からないから、私はこの解釈を求めて何回もこの作品を読んでいるのだ。
「ぎゃあー、と泣いた。赤ん坊のようだ。いや、かつて私は赤ん坊だったのだ。もしかしたらあの赤ん坊は、私なのかもしれない。私は彼に殺してもらって、愛のない世界を生きたかったのかもしれない。笑いながら、送り出してほしい。それも、抱えきれないくらいのおっきな愛情を持って。ここには死がない。ここにあるのは、ただ存在が消えるという事だけだ。悲しすぎて、私はもう涙がダクダクで、マンコも泣いて」
主人公は自分が気づいていないだけで、異様なまでに執着出来る、宗教的な存在に出会えて幸せではあるだろう。そこに、そこにだけではあるとは思うが、救いは存在している。殺してもらえても、殺してもらえなくても、違った喜びがあるはずだ。好きな人が側にいる限りは。
そんなことをぼんやり考えつつ、春風に吹かれながらCoccoを聴いて悦に入って、映画『リリィシュシュのすべて』もまた観たいな、なんて思いつつ、何もなかった今日を終える。