晴れすぎた空

結婚式、新婚旅行を終えた次の月には妊娠した。ハリーウィンストンの婚約指輪に、リッツカールトンで挙げる結婚式、モルディブ とドバイで過ごす新婚旅行。もうこれ以上に良いことはこの先ないだろうな、そう思えるくらい全てが完璧で満たされていた。結婚半年目での妊娠だった。

今の私は安定期を迎え、つわりもほぼなく、仕事もしていないので本を読んだりテレビを見たりぐたぐたしているだけ。でも妊娠しているから、を言い訳に出来るからストレスがない。あと5ヶ月で出産かー、まああっという間だよね、くらいにしか思っていない。体重もまだ増えていない。妊娠後期には太るんだろうけど、激太りは今のところなさそうだ。27歳で籍を入れ、式を挙げ、28歳で妊娠、出産。早くもないけど遅くもない。コロナの被害さえ受けなければ完璧な人生設計だ。30歳で二人目を産んで、子供は二人。教育地区でもある文京区にマンションを購入し、休日は夫と子供とまったり過ごす。そんな想像しているだけでも、楽しい。

夫と知り合って10ヶ月未満で籍を入れたけど、何の不満も今のところない。こんな人生を自分が送れるとは思ってもいなかった。子供もいなくても良いとそれまでは思っていた。共働きで、家事もほとんどやらせるような人と結婚していたら、子供は作らなかったと思う。専業主婦させてくれて、家事も手伝ってくれて、何のストレスもなかったから子供を作ろう、という余裕が出来たのだと思う。何様だよって感じだろうけど。それでも妊娠した時は「え、もう?」と思った。排卵チェッカーを使って妊娠率が1番高い日にタイミングを取ったのだからそりゃそうだよ、って話だけど、妊活は半年くらいかかるものかなと思っていたから。妊婦検診もなんともなく、無痛分娩を予約した。

妻と夫、というよりは、彼はなんでもしてくれる万能なお手伝いさんのようであって、お金持ちで優しいおばあさんに保護された野良猫の気持ちだ。私は人と共存することがそれまで苦手で、一人がこの上なく幸せだと思って一人暮らししていた。30代半ばまで水商売をやって、中古の1LDKマンションを購入して猫と暮らそうと思っていた。

とはいえ、今の日本は専業主婦は肩身が狭い。当たり前のように結婚しても仕事は?と聞かれる。いや、主婦だけど、みたいな。なーにが仕事じゃい。好きな人だけすればいいやろ。夫におんぶ抱っこで寄生しているよ☆〜(ゝ。∂)フルタイムで働いて、家事をして、子供を育てるなんて、自由を捨てて奴隷になるほど献身的な人間性ではない。いや、全てをこなしている女性は凄いけど。好きでそれをやっている人は果たして何割いる?仕事が好きだったりするバリキャリ女性もいるけどね。甲斐性なしと結婚するくらいなら独身貴族を謳歌していたと思う。見返りなく、何かしてあげようとは思わないし。愛なんて3ヶ月もしたら覚めるし。高学歴で年収2000万以上で優しい彼だから愛は続いている。そんなものでしょう。

この秋出産する子供が彼に似てくれたら嬉しい。似てなくても愛せますように。2匹のネコを引き取って暮らしてから、幸せな人生が訪れた。無宗教な私だけど、ネコチャンだけは信じている。幸福の鍵しっぽの猫だったから、幸せになれたのだろう。中学受験で第一志望落ちた時、絶望でいっぱいだった。隣人を自分のように愛しなさい、の意味が分からなかった。クリスチャンではないけど、そのような校風に私はずっと憧れていた。願いは叶わなかったけど、だけどいい。

滑り止めの、校則の厳しい中高一貫の女子校から、行きたかった変わった校風(普通じゃないが普通です、みたいな校風で、就職率は高くないけど好きなことは出来たと思う)の大学に進み、中小企業の事務員やったり水商売やったりしながらも27で結婚して28で出産予定で、人生はなんとでも軌道修正出来た、と思う。このまま私は普通の主婦として生きていくのだろう。昔はそんなつまらない人生は嫌だと思っていた。でも今の私は、そんな人生に満足出来る、普通の主婦として生活している。


永遠の夏休み

27歳の夏に、私は既婚者となった。

夏が結婚記念日なんて、私には似合わない。

夏は冷房が効いた部屋で、いつも引きこもっていた。

花火大会もお祭りも、27年間男とデートで行ったことはなかった。それだけ私はモテなかったのだ。年収300万レベルの男に切り捨てられ続けた私の結婚相手の年収は2000万を超える。俗に言うハイスペ婚なんだけど、最後の男が出来る男なら、今まで否定され続けた意味はある。否定してくれてありがとう。お前はハリーウィンストンのダイヤの婚約指輪を借金するなりしないと買えないから、どうせチープなブランドの婚約指輪を買うまでの甲斐性しかないのだろうけど。それが愛とか自分に言い聞かせながら、数年後には安風俗にハマって給料使い果たして嫁と金の問題で喧嘩するんだろうけど。そんなこと、こっちは知らない。

夏の暑い日に、冷房を24度にしてだらだらと二度寝を挟みながら、汚いラブホでセックスしていたことを思い出す。10代後半から20代前半の頃?何度ヤりたがるんだこいつはと思いながら、演技をしていた日々をふと思い出す。ラブホテルなんてもう1年近く行ってない。池袋と新宿の安いラブホならだいたい知ってるけど、もう取り壊された所すらあるはずだ。

おめでとうございますと言う役所の人を見ながら、何に対して言っているのかと一瞬悩んだけれども、結婚がめでたいことだからかと納得した。納得するまで、ほんの少し時間がかかった。現実味がない。苗字が変わる実感がない。もちろん不幸ではない。この感覚をなんと言えば良いのだろう。

セフレが死んだその一年後に私は結婚した。

薄情だろうか。それとも無神経なのだろうか。そんなもんだよね、と言われるのだろうか。もしも生きていたなら、彼は一体何と言うだろう。

良かったねー、なんてヘラヘラ言っていただろうか。悲しみはしないだろう。それは私たちが付き合っていたわけではないから。

私と旦那は、スピード婚というわけでもない。燃え上がった恋でもない。出来ちゃった婚でもない。

ただただこれからも楽な日が続いていくということだけは確かだ。

甲斐性ある人と暮らすのはストレスがない。だから心から感謝している。こんな生活を送らせてくれる人間は上位10パーセントくらいもいないと思う。

受験も上手くいかなかった。就職も上手くいかなかった。何一つ上手くいったという成功体験がないまま、ダメな大人になった。強いて言うならオヤジビジネスでご銭稼ぎが平均より少し多く出来たくらいだろう。

人生で上手くいったのは婚活だけだ。

当初の私が結婚相手に望んだのは、学歴だけだった。学歴良くても仕事出来なきゃ意味ないじゃーん、そんなことを言う人をよく見る。でも。その学歴を手に入れるのが大変だし、その学歴を手に入れる過程がもう凄いし、自分に一番足りないものだから、どうしても欲しかった。バカとバカの子供はバカだけど、バカと頭良い人間の子供はバカの可能性も半分あるけど頭良い可能性も半分ある。

その可能性に賭けて、避妊に気を付け続けた独身時代を経て、子作りのためでもある中出しするようになるのだろう。

2000万以上稼ぐ男性は0.3パーセント。

30代40代の男性で20代女性と結婚出来る可能性も数パーセント。

ギブアンドテイクというか、需要と供給だと思う。側から見たら男は金、女は若さ。

金だって、外資系だから上がり下がりがきっとあるだろう。若さだって、数年もしたら衰える。

それでも今が良いなら、それも愛だろう。

それを愛と思い込めるなら、それが幸せといえるなら。

結婚に容姿は関係ないな、と思う。あと数打ちゃ当たる、ってのも確かだ。何度理想の相手と出会うためにパーティに行っただろう。結婚した私はもうパーティには行かない。

108本の赤い薔薇と、ハリーウィンストンのダイヤの婚約指輪に、リッツ・カールトンで挙げる結婚式。これは上位何パーセントだろう……。まだ地に足がついている感覚がない。

なるべくしてなったハイスペ婚した成功体験を胸に、私は27歳滑り込みで12月に花嫁になる。

中学受験は人生を変えたのか

妊娠検査薬を何度も試みるものの、結果は陽性で間違いはないようだった。本当は彼氏との子供が欲しかった。でも、私のお腹に存在しているのはセフレとの子供で、これから産むべきなのか、堕ろすべきなのかをただただぼんやりと考えていた。彼氏には何て説明をしよう。親にも紹介したのに、指輪ももらったのにどうして彼との子供じゃないの。どうしてあのタイミングでピルを飲むのを辞めてしまったのだろう。どうしてあのタイミングで酔っぱらって家に行ってしまったのだろう。どうして本命ほど避妊具を着けるのに対してどうでもいいやつほど生でヤりたがるのだろう。性病にこそなったことないものの、子宮頸がん検診で引っ掛かった恐怖は今でも忘れない。私もいけない部分はきっとあった。でも自分から生でヤりたがったことは一度もない。どっちにしたってイけないのだからゴムを着けてほしい安心したいし。検診台の上に乗る恐怖をあと何度経験するのだろう。でも、再検査でがんではなかったのだと知り安心すると共にもう二度と性に奔放になるのはやめようと思った。がんになったら最悪死ぬことになる。今までの経験人数は3桁は行かないくらいだとは思うけど生でヤったのは片手で収まるくらいだ。それくらい気を付けてはいた。人殺し、と生でヤってきた男に呟いた。お前は気持ちいい思いだけしてこっちに不安な気持ちだけを残してしかも粗チン。将来考えてる彼氏ですら避妊具を着けてるのにふざけんなよタコ。冷や汗をかくと共に目が覚めて、夢なのだと気付いた。そう、すべてが夢だった。生理が来ている、だから妊娠はしていない。しているわけがない。セフレとヤったのも半年前だし妊娠するわけがない。にしても生々しい夢で、現実との区別がつかなかった。夢でくらい安心させてくれよ。

2月になると思い出す中学受験の時期を、もう何度通りすぎただろう。ジャガー横田の子供が中学受験したのを取材した番組は、視聴率が良かったそうだ。全ては見なかったけど、落ちてもしっかりとしたコメントをしていて、わずか12歳でも自我はしっかりあるのだと痛感した。合格した学校で、医者になるために頑張ってほしい。若い彼には夢があり、少し羨ましい。
「私立の中高一貫校なんて洗脳教育よね。」
カフェにいた主婦が話すのを聞きながら、妙に納得をしてしまった。学校の選択によって人生が左右されると言っても過言ではないのだろう。
援交で逮捕された担任に中1の時放課後呼び出されたのを思い出した。ガリブスだった私が欲情されるわけもなく、友達がいないことを心配され、色々とクラスのことを聞かれた。成績悪いことを聞かれるかと思ったのに、こんなことを心配してくれるんだと驚いた。私はもう少し心を開いてみるのも大事なのかもしれない。授業前に教室にいるのが怖くなってカウンセラー室に逃げ込んだことも、昼休みに教室にいるのが辛くなって図書室に行って本をひたすら読んでいたことも私の中高時代の青春だ。振り返ってみたとしても、多感な時期をそんな暗く過ごしてしまったのは間違いなく自分のせいだろう。しかしながら、ファミレスでバイトしながら、時給900円で稼いだお金で銀杏boyzのライヴに一人で行って救われたりと色々だった。学校に友達がいなければ、ネット(チャットやら前略プロフィールやら)で友達を作ったし、学校が人生の全てではなかった。でも多くを占めている学校が与える影響は計り知れないとは思う。担任が逮捕された10年後に、買う側だった担任とは真逆の売る側に私はなっていた。今でこそパパ活といった言葉が流行っているし、殺人事件だってあるくらいリスクがあることだっていうのは白痴の私ですら分かっていた。お金より欲しかったものは、承認欲求だったのだろうか。記憶の一部始終が途切れて、今ではあまり覚えていないけど、精神が荒んでいたことだけは確かだった。いつ誰かにホテルで殺されたとしても別に良かった。でも、誰も殺してはくれなかった。ただ優しくお金をくれて、また会おうねと言ってくれた。それが私は嬉しかった。何も傷つくことなく、貯金だけが増えていった。中高時代とは真逆で、存在することがそこでは許された気がした。みんな優しかった。だからこそもう二度とこんなことをするのは辞めようと思った。それから私はキャバクラしかやっていない。
私は、大人より子供の方が怖い。ギャーギャーうるさいし、何も怖いものがまるでない。人を傷つけても殺しても、少年法で守られているから被害者は泣き寝入りするしかないからやり場もないし。大人は、まだ理性ある者が比率としては多いだろう。何をしても許されてしまう子供だからこそ、自分が守られていたこともあったけど。
私が行きたかった中学は国立で、通うことになった学校とは真逆の校則もない自由な校風だった。内気でいつも母親の後ろに隠れるような子供だった私の手を引いて遊びに誘ってくれた女の子は、国立の幼稚舎に通っていた。
「あの子みたいに明るい子になってほしいの」
母親がそう言うから自分を変えたくて、中学受験を決意した。国立の校風は、親も気に入っていた。あの環境に行けば、少しは変わるものもあるかもしれない。父親も兄も国立だから、私も頑張って行けたらと思いながらずっと塾に通っていた。結局落ちたけど。一瞬で夢が終わった。
落胆すると共に安堵する。もう二度と受験することもなければ学習塾に通うこともないって。苦手な数学を勉強することもない。一流ではないものの最終学歴は一応は大卒で、プライド高い男からしてみても偏差値は高すぎず低すぎずでちょうどいい。一般職で手取り20万行かない事務職OLが関の山だ。彼らのプライドを逆撫でする要素はまるでない。そう思い込んで安堵してみるものの、不合格だった失敗経験は消えない。本当はもっと頑張りたかったのが本音だけど、終わったことはどうにもならない。かと言ってもう一回リベンジで受験したいとも思わないし。なのに完全には諦めきれないのはどうしてだろう。
仮に子供が出来て、自分より馬鹿なら学費が無駄だなと思い、自分より頭良かったら「ママって勉強出来ないもんね」と馬鹿にされるのだろうか。そして、その事に対して怒りが沸くのだろうか。
消ゴムのカスを投げられたくないから塾で食べられなかったお弁当も、テストの点数がトータルで悪かったクラスが塾の周りをうさぎ跳びさせられたことも、記憶からはなくならないから不思議だ。こんなことを自分の子供も経験していくのだろうか。だったら一体生まれてくる意味はなんだろう。金をもらっておっさんとヤったときにアドレナリンがドバドハ出たのは、そんな勉強と真逆なことをやれてしまう自分に満足をしていたのではないだろうか。
働いているキャバクラで売り上げの成績表が更衣室に貼り出されていた。私はナンバーに入っていて、塾で成績が貼り出された時の虚しさはない。下位の自分を恥じていた小学生の頃とは真逆の、安堵とも言えない、喜びも悲しみもないこの感情を何と呼べば良いのだろう。壊れてしまったものを修復するだけの能力は、人間にはあるのだろうか。
フェイスブックを見て、フォローもしていない苦手な知人の幸せそうな報告を見て、下唇を噛んだ。あんなに人を傷つけてもガキを産んで満面の笑みで微笑むことが出来る。震えが止まらないのは忘れていないからで退化しているから?そんなことはない、紛れもなく今の私は幸せだ。
現在の私は港区の白金で旦那と暮らしています♪専業主婦最高!毎日がハッピー!結婚指輪はハリー・ウィンストン!海外旅行と毎週のアフタヌーンティー日課で、週末は旦那が連れていってくれるミシュランガイドに載ってるお店が美味しくて幸せ~(*´∇`*)整形してマシになった顔を更に加工して、そこには第二の私がいる。歯並びを綺麗にしたから、歯を見せて幸せそうに笑えばいい。
現実と妄想を織り成しながら、私は架空の自分を作り上げ、マウントを取ることで人生のリベンジを計っていくのだろう。誰も見ることもないのならば意味がないということにも気づかずに。大逆転、そう言いながら二匹のネコが近づいてくる。お姉ちゃんは人生大逆転したね、良かったね。そっかあ、二匹のネコは私の味方だものね。ネコのボランティアに参加してから人生は好転した。いるだけで幸せだなんて存在はそうそうない。ネコチャンは最高な存在だ。専業主婦を養う旦那もそんな気持ちで仕事を頑張っているのだろうか。私は誰にも養われていない。でも妄想上ならどんなマウントも取れるような気がする。夢の中と妄想の中なら辛いことも何もない。私は幸せ、そう自分に言い聞かせながら、SNSを更新していくのだろう。

死がふたりを分かつまで

セフレが死んだ。
創作でも何でもなく、事実として存在しているこの事柄に関して、どういった感情処理をしたら良かったのだろう。今日で彼が亡くなって一ヶ月経つ。
21時55分に亡くなりました。の意味が分からなかった。お別れの時が近い、と更新された次の日だった。そんな急な訳ないと思っていたし、心の何処かで何らかの間違いだろう、そう思っていた。というよりも、そう思おうとしていたのかもしれない。
現実を受け入れるしかないのだと分かってからは、「今まで仲良くしてくれて本当にありがとう」とだけ伝えた。言いたいことはもっと他にもあったんだけどね。何も上手く言葉にはならなかった。
過去の21時55分に私たちは電話もしたし、ドライブもしたし、DVDだって一緒に見たし、セックスもした。彼女がほしいと言っていたから、一緒に街コンだって行った。最後に家に行ったときはセックスすることもなく、手を繋いで寝た。仕事で疲れていたみたいで、私よりも早く寝付いたようだった。穏やかな気持ちでそれを見届けると、私も気付いたら眠りについていた。
ご飯を二人分炊いてくれて「一緒に朝ご飯食べよう」と言ってくれたのにどうして私は仕事で朝早いから、と厚意を無駄にしてすぐに帰宅してしまったのだろう。
ゲームのイベントがあるから行こうよと言われた時に「雨だしまた今度にしない?」と何故言ってしまったのだろう。また今度なんてなかったのに。でもそんなの、その時は考えてもいなかった。だって私たちはLINE一本ですぐに会える間柄だったから。
気持ちの整理がまるでつかない。
初めて会ったのは二十歳の時だった。始発まで何をするってこともなく、池袋のドンキ前でたむろしてくだらない話しをしていた。彼はホストの体入終わりで、私はJKリフレの勤務終わりだった。始発が来ると同時に、私たちは解散した。
次に会ったのは自暴自棄な時期だった。私の髪はオヤジ受けを意識した黒髪から、汚いブリーチで明るくなっていたし、彼の家に着いた頃にはふらふらだった。倒れ込むように、家に入った。実家からも、仕事からも逃げたかった。特に偏見の目で見ないでくれて、それが救いだった。その日に私たちはセックスをした。精神安定剤を飲んでいて、あまり感覚はなかった。ふわふわしている気持ちの中、気付いたら行為は終わっていた。
今から2年前に、病名を告げられた。ねぎしでご飯を食べている時に。
「嘘だよね?」
私は、そう言うしかなかった。嘘つくような人ではないことくらい知っていたのに。彼はただ冷静に、
「嘘でこんなことは言わないよ。」
と言った。今まで明るくて、暗いところなんて見せてこなかった彼が、初めて真面目な口調でそう言った。そう言われた時、私はなんて返事をしたのか覚えていない。返事が出来たのかさえ覚えていない。
彼はちゃんと、生きることに向き合っていた。私は上手く行かないことばかりで嘆いてばかりいたのに、彼は常に明るかった。死にたいと言った時に、彼は悲しむことも怒ることもなく、「俺はそうは思わない。」とだけ言った。なんで私はあんなことを言ってしまったのだろう。言ってしまった直後に後悔した。
「死にたい」と言う者に対して、私は「じゃあ死ねば」とは絶対に言わない。彼も言わないでくれたけれども。自分が言われたら嫌だから、というのもあるけれども、死ねばなんて言える権限、誰にもない。病んでいて、よく死にたいと言っている友達がいて、可愛くて稼げて恵まれてるのにどうして?という疑問があった。だからって死ねばなんて思わなかったけど。その子は本当に自殺してしまった。だから、死にたいと言う人間に対して、死ねなんて言うべきではない。飛び降りた時の気持ちを考えると、心臓が痛い。でも、彼女はその何倍も痛い思いを味わったのだろう。
死にたいと今の私はもう言わないし、思わない。好きな人がいるから。会えるまでに通り魔に刺されたらどうしよう、とか車に跳ねられたらどうしよう、とか、付き合う前はそんなことばかり考えていた。つまりは死にたくないのだ。生にしがみつきたい。死んだら会えなくなるから、なんて短絡的かもしれないけど、生きたいという動機にはなっているはずである。彼も同じ生きたいという思いを抱いていたはずだ。だって言っていたから。「死にたくない」と。
彼の部屋にあった『蛇にピアス』のDVDを思い出す。彼は知り合って間もなく刺青を入れていたけれども、この作品に感化されたのだろうか。彼のスプリットタンにした舌を見るのが好きだった。『蛇にピアス』の小説の、印象的な台詞がある。
「アマと出会う前は生きるためだったらソープで体売るくらいの事はしてやるよ、と思っていた。それが今の私には寝て食べるくらいの事しか出来ない。今は、臭いオヤジとやるくらいだったら死んでもいいかなと思う。一体どっちの方が健康的なんだろう。ソープで働いてでも生きてやるってのと、ソープで働くくらいなら死んだ方がまし、ってのと。考え方としては後者の方が健康的だけど、本当に死んだら健康もクソもない。やっぱり前者の方が健康的なんだろう。」
すっかり気力がなくなってしまったというだけではなく、彼女は好きな人間以外に抱かれるくらいなら死んだ方がマシだと思ったのだろう。
私自身、好きな人がいる時はセフレに会いたくないし、身売りもしたくない。しかし、好きな人がいなかったり、上手くいかずに荒れているときはどんなことだって出来る。出来てしまう。乖離してしまう自己、躁の波に、自分自身でも着いていけない。
「棺の中にいるのは別人だと思いたかった。現実逃避する以外になかった。こんなに思い悩むって事は、もしかしたら、私はアマのことを愛していたのかもしれない。」
この文章に対しては賛否両論だが、私はしっくりくると思う。身近にいた時はそれが当たり前だったけど、喪失して気付く大切さ。大切なものは失わないと気付かないこともあるから。
セフレが死んだ、と書いたけど私たちの関係は一体なんだったのだろう。付き合ってはいなかったけどセックスはしたからセフレ?でもセックスは3回くらいしかしていないし、ほとんど家に行ってもなにもしないことが多かった。じゃあ友達?なんだったのだろう、彼と関わった6年間は。一回セックスをして、後腐れが残るのは、虚しいようで、嬉しいことなのかもしれない。他人にならずに、付かず離れずでもずっと関わってくれたのだから。
10人の男とワンチャンしたら3人の男は付き合ってと言い、3人の男はヤり捨てし、3人の男はセフレとしてキープしながら連絡を細々と取り合うような気がする。あとの1人は知らん。
セフレだか友達だかは分からないけど、それでも6年間関わりを持ってくれた彼。
夢を見た。バスの衝突事故で、眠っている間に私は亡くなっていた。私は事故の被害者で、即死だったとニュースで伝えられた。同情する者、ネタにする者、興味すらない者。
みんなどうして無視をするの?高校の頃に戻っちゃったの?私は、現世を彷徨いながら、周りに問いかけるものの、応答はない。その時に初めて、自分が亡くなったのだと気付く。魂しか、此処には存在しない。健康な肉体も、そこにはない。
「思ったよりも早くこっちに来たんだね。」
彼は笑いながら、そう言った。私は久々に彼に会えたことが嬉しくて、笑顔で頷いた。
ここは現世ではないことだけが、確実だった。そっかあ、私死んじゃったんだ。
高校の頃は生きるのが怖くて、死ぬことの方が怖くないと思っていた。でも、大人になってその考えはなくなったのに。
長い夢だった。現実と間違えてしまいそうなほど、それはリアルな夢で。
だけど、彼は夢の中で笑っていたから、私は嬉しかったような気がする。

教室で誰かが笑ってた

「わー。すっごーくかっこいいスーツですねーぇ。似合ってるーう。」
過剰なまでに騒ぎ立てて誉めちぎると、オヤジは満足げにニヤニヤと笑い、私に酒を勧めた。きっと、数十万は下らないだろう。一方私は、胸をヌーブラで寄せて、Tバックに、露出ある衣装。それらには特に大きな抵抗もなく、うさぎの耳が取れないよう、ヘアピンで固定した。
今年27にもなるのにどうしてバニーガールを着ているんだろう。そう思いながら、今年も足を洗えなかったんだなという葛藤と、寿退社とは無縁の人生なんだろうな、という絶望が襲う。しかし義務がないのは心底楽なのだと思うと、それでもいいのかもしれないとも思う。
雨に濡れながら終電で帰宅しようとしていた私に、知らないおっさんが傘を渡してくれた。若い女に優しい、中央区の夜。躊躇うことなく笑顔でそれを受けとると、終電の電車に向かい、足早に駆けていった。
時には開き直りも必要だから…手取り20万いくかいかないかで大幅に時間を支配される、事務職OLが名残惜しくもならなかった。満員電車のストレスも、睡眠不足によるストレスも、味わうくらいなら死んだ方がマシかもしれない。
酔っ払ったNo.1の女が待機でベロベロで、寄りかかってきた。
「ごめんね、私酔っちゃって。」
細くて長い手足に、整った容姿。女の私でも一瞬ドキッとして、あーこりゃこの仕事で経済を回せるのは必然だな、と思った。
「あ、大丈夫ですよ、無理なさらず……。」
それだけ言うと、彼女は口角を上げ、微笑んだ。彼女は、とても美しかった。
10年前が17歳というと、まだ私は高校生だった。自殺するかしないかで葛藤するほどの、当時のような悩みもなく、ただ毎日は過ぎていく。そうやっておばさんになっていくのだろう。だいぶ生きやすくなったものだ。クラスメイトに出ていけコールをされて机の中の教科書も持ち帰らずに、鞄をおもむろに持って教室を出ていった日のことを思い出した。全く忘れることなんてないんだなあと思いながらも
、別の世界の出来事だったようにも思える。なんて被害者ぶりながらも加害者だったこともあり、被害者ぶる権限は何処にもないな、と感じる。理性を持った、正しい大人になりたいという、当時の願いは叶わなかった。
そういえば西鉄バスジャック事件の再現ドラマを見て、涙がボロボロ止まらなかった。恐怖からではなく、加害者に感情移入をしたから。加害者は、17歳だった。
人を殺したいほどの絶望に直面した時、一体人間はどうなるのだろう。もちろん加害者が正しいとは思っていないし、被害者は本当にやり場もない怒りがあると思う。落ち度もなく、理不尽に殺されてしまったのだから。
でもどうせなら、何の罪のない人を殺すのではなく、自分をいじめてきた学生時代の同級生を殺せば良かったのに、とも思う。どーせ少年法が守ってくれるんだから。
「誰からもわかってもらえず、辛かったんだね。」
加害者に、被害者はそう声をかけたそうだ。重体になるほど刺されて生死をさまよい、顔にだって消えない傷を残されたのに。恨むのは当然なはずなのに。加害者は、その言葉を聞いて、涙したそうだ。私は、その涙が嘘だったとは思えない。怒鳴られるより、嘆かれるより、許されることが一番辛いのではないのだろうか。でも、向き合うしかないのだから、贖罪の方法を日々考えながら、生きていくのだろう。
私は人を殺さずに、前科もなく27歳に今年なる。結婚するか会社員でいるかも叶わずに、適当に義務なく暮らしている今を徹底して楽しめばいい。イケメンに持ち帰られるために急ピッチで酒を飲んで酔っぱらって、明日のことも考えずに思うがままに行動出来る気楽さに、感謝したら良い。
ラブホのベッドで朦朧としながらあーチンコ突っ込まれてるなーってかゴムつけてないやないかい。ま、ピル飲んでるしいっか。大丈夫大丈夫気持ちいいし、これくらいじゃ死なないよな、いやむしろ死ねたら嬉しいか、アハハと思いながらヘラヘラしつつ生挿入されていた。男はどこに出せばいい?とか聞くけどそれくらい自分の頭で考えようやとも思うし、まあ聞いてくれるだけ親切なのかなとも思ったり。
そういや飲み会で顔射の話しした時に、その男だけ顔射したことあるって話で盛り上がったっけ。うーん、どうせワンチャンだし中出しサービスするより顔射の方がセフレ女感あってエロいだろう。「顔で。」そう言うと同時に顔が温かくなった。まあ帰って寝るだけだし化粧もどうでもいーや。元々顔面は崩れているし。暗いラブホの照明に感謝した。私は顔射とかなんとか、特にそのような嗜好はないけれども、警察沙汰になった男に顔射されたのが最初で最後だと思うと、なんだかなあと思ったのでそれを選んだ。
あの彼はただ単に、キレやすかったからか、殺したいほどの憎しみを抱いてくれたのか。それは今でも分からない。死にたい死にたいその男に言っていたのにいざ刺されそうになった私は、死にたくないと思いながらブーツも履かずにそのマンションを飛び出した。後ろを見たら刺される、誰か助けてと言うのと、近くにあったフライパンを投げたのは同時だった。人生で初めて110番を押した場所が好きで好きでたまらなかった男のマンションだったとは皮肉だ。でも、そういう自分に酔ってるんでしょと言われたら否めない。そんな20歳になったばかりの冬だった。その男は書類送検されたのだろうか。前科はついたのだろうか。
警察の手続きは面倒で、誓約書みたいなのを書かされた。もう会わない、とのような。
付き添ってくれた女警官が言ってくれた言葉は、きっと一生忘れない。
「暴力振るう男だけは止めなさい。」
泣きじゃくる私を説得するかのように、静かにそう諭した。
気づいたら終電はなくなっていて、男警官が二人乗っていたパトカーで、私は実家まで帰宅した。
親は寝ていて、特に話すこともないなと思いながらベッドに入った。その日はなかなか眠れなかった。
その一年前の夏に強姦未遂に遭って警察に行ったことも親には言えなかった。今ではどうかわからないけど、未成年は、大人の承諾がないと被害届を出せないのだ。当時18だか19だった私は、別にヤられたわけじゃないし夜中に爆音で音楽聴きながら帰っていた自分に落ち度があると、全てを諦めた。経験人数1人の夏だったけど、それから徐々に荒れていった。知らない男に乳を揉まれた絶望は、4年後におっパブで働くとは思えないほどのものだった。まあ今となりゃ金さえもらえばなんでもいーよ。時には諦めも必要だ。
そんなことよりも気になるのは、CoccoのRainingという曲の歌詞で、「教室で誰かが笑ってた」という部分。笑ってたのは、嘲笑いだったのか、楽しさによる笑いだったのか。その解釈だけがずっとはっきりしない。だけど、生きていれば勝手な解釈は出来るし、理解できる日は来ると思う。


教室で誰かが笑ってた
それはとても晴れた日で

春が来て本当に良かった

春になると思い出すのは、あっという間に散ってしまう桜と、憂鬱な生ぬるい風。
だけど春は毎年比較的良いことが多くて、私でも幸せになれるんじゃないかという期待が一瞬だけ生まれてしまう。
テレビが見れなくなって放置している私の暇潰しは、専ら読書になった。OLを休職して1年が経過して、これで良かったんだよね、と自分自身を納得させている。好きなだけ眠れて、好きな時間に好きなものを食べれる幸せ。元々失うものなんてなかったのだから、これはこれで良かったのだと思いたい。
大学に入学した春、違う学科の異性を好きになって、処女でどうしたら良いか分からなかった私は、コンビニで彼をよく待ちぶせしていた。一人暮らしの彼はコンビニ飯ばかりと言っていたから、コンビニに行けば会えると信じて。(真面目に授業受けろよ)会えたら偶然を装って、話しかけた。
「わー美味しそうなパン。」
「このカップラーメン美味しいらしいよ。」
ただただ一目会えたら嬉しい、なんて恋愛はこれからもうすることはないだろう。あわよくば、話せたら一日中ルンルンだ。
いつも一緒にいる男の子の顔も覚えたし、女の子とコンビニに来ることはないから、安堵していた。
しかし、のちに彼は同じ学科の女子アナっぽい可愛い子と付き合うことになる。メールが来る度に嬉かったことも、mixiで日記を書いたら足跡が来て嬉かったことも、私は忘れない。そのことをずっと引きずりながら、18の夏に私は適当な男で処女を捨てた。
新卒の春は就職先の研修で1週間京都に行った。毎日くたくたで、実家に帰りたかったし、人間付き合いはダルかった。くっそ、どうして就職なんかしないといけないんだ、と思いながらも同期と仲良くなり始めていた。女の子は専門卒のギャルと体育系の大卒ギャルが固まっていて、私は心理学部の子と、女子大出身の大人しい子と仲良くなった。鏡に映るのは、不自然なくらいに黒い黒染め後の髪に、似合わないスーツ。滑稽だ。ブリーチした汚い茶髪に、ゴスロリを着ていた私はもういない。大学に戻れることはないんだと思うと、ただただ絶望しかなかった。未だに学生の頃の夢を見るのは、学生時代に未練があるからだろうか。同期16人で写真を撮ろうよーとコミュ力のある男子が言うと、私はダラダラと向かった。太って、パンパンの顔を写されたくないから、顎引かないと。写真を撮るときにいきなり肩を組んできたイケメンはチャラそうで、正直良いイメージがなかった。こいつは自分が好きでたまらないんだろうなと直感で感じた。だから私は冷たく接していた。可愛いねと冗談ぽく言われたときに嬉しかったけど、あーそういうの別に大丈夫だから~と軽く流すふりをした。
でも家が近所で一緒に帰っていくうちに色んな面を知れて好きになったし、新卒の研修のときはいつも一緒にいた。新卒のメンバーで呑むことになった日はベロベロで、帰りが一緒だったから私たちは自然とホテルに行っていた。―なんてことはなく、手を繋ぎながら家のマンションに送ってくれて、他愛もない内容のLINEを毎日した。黒髪が好きだと言っていたから黒髪でいようと思ったし、会社に行くエネルギーだった。まあ別の同期の男子から中学の頃の地元の彼女とより戻したって聞いて沈没するんだけど。飲みの帰りに大学の頃の友達に泣きながらそのことを電話をしたのは、今ではネタになっている。
とまあ、叶わなかったからこそ美化されている思い出が沢山ある。ワンチャンした男やセフレのことなんかわざわざ思い出すことなんてほぼ皆無に等しいのに、不思議なものだ。
今年27の私は、そんなエネルギッシュなはずもなく……。婚活パーティーでカップリングした東大卒とイタリアンに行ったり、一橋大卒と和食を食べに行ったり、そんなことばかりしていた。はあ、まだ婚活市場では若い部類だからちやほやされて良かった。数年後のこと?考えたくない……。いくら学歴コンプとはいえ、学歴だけで男を見るような、視野の狭い女である。学歴はいーんだけどデブだから性欲わかねー。結婚だけしてくれねーかな。と思っても上手くいくはずもなく。
「わー。ちょーすごーい。」
次のデートに繋げるためにキャンキャン甲高い声を出して上目遣いしつつニコニコするものの、これじゃない感が強い。だるいしこんなのもうやめてぇよと思ったときに知り合ったのはくそタイプの年下で、一目見たときからあー早くヤりたいなーとしか思えなかった。付き合うとか、結婚なんてどうでもいいから、すっ飛ばしてセックスしたい。いやいや、付き合えたら嬉しいだろうけど烏滸がましいし、とりあえず一発ヤったらこの気持ちの高揚は落ち着くだろう。
今までは、向こうから求められていた。それが当たり前だと思っていた。だってこっちは女だし、Eカップだし。そりゃタダマン出来るならしておこうと思うのが性欲満載である男だろう。(何様だよって感じですな)しかし相手の下心が分かった瞬間に面倒になるし、こっちにメリットねーし、と考えてしまう。
でも今回だけは違った。なんとしてでも持ち帰られたい。直感がそう言うから、私はそれに従った。顔タイプで性格は草食系ってもろタイプだわどうしよう。酒をほどほどに飲み、勢いで自分から手を繋ぎ、満員電車でとりあえず抱きついて、酔ったアピールして、家に転がり込んだ。ただの発情期のメス豚だ。相手は草食系と思ったわりに、3回戦したがるから若いなと思った。ユルいと思われたら嫌だから、早くイってくれることに安心した。大丈夫、まだ下半身の使い道はある。
私はヤりそうでヤらないヤる前の空気が好きで、事後はあまり好きではない。向こうが終わってぐっすり眠ってるときに時計を見たら3時半だった。仕事終わりの金曜日によくここまで頑張れるな、年下だから性欲の塊でもある年頃だよね。化粧を落としたいなとか思ったけど、部屋を見渡した限り化粧落としはなさそうだった。昔から異性の家に行くと見るのは、女の影があるかないか。露骨に綺麗だったり、ナプキンや化粧落しが置いてあると他にも女がいて遊んでいるのだろうな、と静かに悟った。相手がどうでもよければ無視して、相手に執着心があれば、自分の髪の毛を大量に落として、他の女に女である自分をアピールした。3回目のデートまで性行為はしない、みたいなルールを設けている人は少なくないだろう。1回目のデートでヤっても軽く見られたりセフレ要員になるかもしれない、という理由で。それは自分を高く見せるために大切だと思う。でも私は、もう二度と会えなくなるかもしれない相手で、繋ぎ止める為なら全然セックスしてしまう。自分の直感を信じたい、せっかちかもしれないけど。今までの経験上、それでも続くときは続く。細く長くであっても。好きな人が自分を好きでなくても、無料デリヘル本番も出来てコスパ良いわーって理由ででも会ってくれたら、会える口実が出来たら、凄く嬉しいと思う。
ずっと家にいても、男には賢者タイムがあるからヤった女がいても邪魔だろう。私は空気を読んで適当な理由をつけて、始発で帰るわーと言った。駅まで送ってくれたけど、帰り道は肌寒かった。じゃあねと言うのと同時に踏み切りが閉まったから、振り返らずに電車に乗った。酒は抜けてないし、太股は痛いし、ただただ家のベッドで寝たかった。彼は気を使って腕枕をしてくれたけど、めんどくさかっただろう。
毎回思うのは、「また会おうね」って言葉が社交辞令か、本音なのか。でも、そんなの考えること自体が、めんどくさい。だから、下半身で解決しようとしてしまうのか。

金原ひとみの小説の『アッシュベイビー』を私は読み返す。もう何十回も読んだ。今までの人生で、おそらく一番読んだ小説だろう。読むたびに解釈が変わるから、小説は好きだ。さっき書いたようにテレビが見れないから本ばかり読んでるけど、綿矢りさの小説も読んだ。金原ひとみ綿矢りさの二人が20歳とかそこら辺で賞を取ったのは、10年以上経っても印象に残っている。
『アッシュベイビー』の好きな台詞がある。
「私の心は射精してもらえない。彼は私の心に射精しない。もう、挿入すらしない。私は泣きそうだった。泣いてしまいそうだった。」
執着して、キスもしてセックスもして結婚もしたけど、距離が縮まることがないことへの葛藤だろうか。主人公はヤリマンだし、太股を包丁で刺すし、キャバクラでは売れてるけど問題は起こすし、クレイジーだ。いや、クレイジーという言葉で片付けるのもどうかと思うけど、もしかしたら繊細すぎる裏返しなのだろうか。
「籍を入れても、やっぱり私たちは一歩も近づけない。彼は心を開いてくれないし、心を開かせてくれない。それでいいのかもしれない。だってもし心を開いてしまったら、彼は私を一生殺してくれないだろうと思うから。いや、私はこんな言葉で逃げているのかもしれない。本当は心を開きたいのに、拒否されるのが怖くて殺して欲しいという思いに逃げているのかもしれない。本当は、彼に自分を全て見せて、見せ尽くして、それでいて愛して欲しいなんて傲慢な思いを持っているのかもしれない。いや違うかもしれない。本当はいつまでも拒否し続けて欲しいのかもしれない。そしてこうやっていつまでも私を軽く受け流して欲しいのかもしれない。だってわかってる。結局、私たちはセックスをして、キスもして、結婚までしたけど、距離は全く近づかない。そして結局なんの意味もない。クスクス笑うと、村野さんは鼻で笑った。私が今どんな気持ちなのか、彼は鋭く読んでいるのかもしれない。むしろ、私がそんな気持ちになるのを知ってて、結婚を承諾したのかもしれない。だとしたら……それでも私は彼が好きなんだろう。」
「こっちが求めてるんだ。私が求めてるんだ。私の方が求めてる。だから私に与えられるのは当然なのに。だのに私には残念賞しか当たらない。ビンゴには一生行かない。宝くじも一生買わない。競馬も、スロットも、競輪も、ロトも、何もやらない。だから私に最高の死を下さい。彼の手から与えられる、唯一の幸せを私に下さい。ビンゴ、と叫びたいのです。ビンゴ、っしゃあ。と、ガッツポーズで彼を手に入れたいのです。」
物語は突然終わる。
「何者にも存在がなかったら私は何者でも許せるのに。何だって許せるのに。それでも私は村野さんの存在を信じる。存在なんてなかったらいいのに。いや、でももしかしたら村野さんはいないのかもしれない。いなかったのかもしれない。ここには、今この部屋には村野さんはいなくて、村野さんに対してはただ好きですという言葉しかない。ああもうすでに私は、灰なのかもしれない。村野さんは私を吸いきってしまったのかもしれない」
執着していた村野さんは、最初からいなかったのか、幻想の存在だったのか。それでも主人公は村野さんに殺してもらえたのか。それが分からないから、私はこの解釈を求めて何回もこの作品を読んでいるのだ。
「ぎゃあー、と泣いた。赤ん坊のようだ。いや、かつて私は赤ん坊だったのだ。もしかしたらあの赤ん坊は、私なのかもしれない。私は彼に殺してもらって、愛のない世界を生きたかったのかもしれない。笑いながら、送り出してほしい。それも、抱えきれないくらいのおっきな愛情を持って。ここには死がない。ここにあるのは、ただ存在が消えるという事だけだ。悲しすぎて、私はもう涙がダクダクで、マンコも泣いて」
主人公は自分が気づいていないだけで、異様なまでに執着出来る、宗教的な存在に出会えて幸せではあるだろう。そこに、そこにだけではあるとは思うが、救いは存在している。殺してもらえても、殺してもらえなくても、違った喜びがあるはずだ。好きな人が側にいる限りは。
そんなことをぼんやり考えつつ、春風に吹かれながらCoccoを聴いて悦に入って、映画『リリィシュシュのすべて』もまた観たいな、なんて思いつつ、何もなかった今日を終える。

中学受験の憂鬱

壁には「栄光を掴め!」と大きな文字で力強く書かれた貼り紙が貼り付けてあった。
義務教育ではない、中学受験に向けての学習塾だった。僅か10歳で、その戦争に私は参加した。まだ当時小学5年生だっただろうか。
私の通っていた小学校は中学受験をする人口の方が多いほどの、教育に力を入れている者が多い小学校だった。
中学受験の過去問を、小学校の授業中に解いていた男子がいた。もちろん彼は先生に怒られた。すると彼は
「じゃあ先生。僕が中学受験で行きたい学校に不合格だったら、先生は責任が取れますか?」
と言った。今思えば、生意気なガキだ。でも私は、その子の振る舞いが格好いいと思って、少し好きだった。彼は、御三家の男子校に落ちたものの、偏差値60越えの男子校に合格していた。先生は、しどろもどろだった。勉強の毎日でストレスのたまった教室内のはりつめた空気は、今でも覚えてる。学習塾のストレスの捌け口が、小学校だったのだろうか。受験の一週間前からは、クラスの半数近くは休んでいた。(風邪になったら受験に影響し、困るから。)
結論からすると、私は1校の学校には合格したが、2月1日、2日、3日と連続で受験に不合格だった。
正気になれずに、泣き出しながら塾の先生に電話をする私。普段は厳しいのに「泣いても仕方がないから他の入試を頑張れ」と励ます塾の先生。レベルの低い私の受験に全く興味もなく、教育に1銭のお金も出さなかった父親。(兄は御三家も受けていたので東大を目指していたらしく、積極的に父が説明会等行っていたらしいが)今さら公立に通うなんて嫌よ、塾にいくらかけたと思ってるのよ、と叫び寝込む母親。ただただ冷静に、高校受験もあるんだからと、苦手な科目の勉強を教えてくれた、国立の中学に通う兄。
いくら小学6年と言えど、流石に不合格続きで不安しかなかった。小学校の子には、塾の子には、何て言おう……。2月4日は2月5日の試験に向けて大勉強をした。今では学習塾で教務主任をしている兄は、勉強を教えるのが上手かった。
「落ちても高校受験があるからいいじゃない。」
兄だけが味方な気がした。しかし、兄弟でも出来が全く違い、本当に恥ずかしかった。
2月5日に、最後に受けた、中高一貫の女子校には、合格していた。
ネットでの合格発表で合格を知り、そこからその学校に、家族全員で行った。掲示板にも、自分の受験番号が書いてある。本当に合格だったんだ。公立中学に行かずに、私立に通えるんだ。
本当に幸せだった、その時までは。だってその後、クラスで孤立して一人でお弁当を食べたり、担任が援助交際で捕まったり、留年の危機に陥るなんて思ってもいなかったから。楽しい生活だけが待っているとその時は思った。その学校を中退した子は、せっかく頑張って入学したものの、沢山いた。
可愛いと有名だった制服のセーラー服を、卒業した後に掲示板で知り合った制服マニアのおじさんに高価で売るとも思っていなかった。
中学受験は、僅か12歳で人生の勝敗が決まってしまう。でも、別にそれでいいと思う。生きていればそんなことばかりだから。早くに挫折を経験して、早かれ遅かれ人生こんなもんだと知るべきだ。受かれば、それはそれで自己評価上げておけばいい。まだ小学生なんだから可哀相、遊ばせてあげたらいいのに、とも思わない。そんな親は、田舎で低レベルな馴れ合いでもしとけばいい。私が住んでるのは、東京の板橋区で、お世辞にも治安が良いわけではない。近所の公立中学は荒れていて、少年院に入ったりしている男子もいたそうだ。だから尚更、良い環境で勉強させてあげたいと思って受験させる親は、教育熱心で素晴らしいと思う。まあ色んな考えがあると思うけどね。レベルの高い学校は、だいたいいじめがないと聞く。自分以外にさほど興味ないから、そんなレベルの低いことをするような人間がいないに等しいらしい。(まあ兄の通っていた偏差値70近い国立の中学で、部活が一緒の中3の先輩が飛び降り自殺して問題になったらしく、いじめが全くない環境は、どこにもないのかとも思うけれども。)
「中学受験で落ちても頑張ったんだから。」
ネットなどでその言葉を目にし、そう言える親は凄いと思った。でも、本音だろうか。
本当は合格して欲しかっただろうし、学習塾だって、安くはない。結果を残してほしかっただろう。
私は、母親が不合格続きで慰めるどころか嘆いていた記憶しかないが、それが本来あるべき姿だと思う。自分だって悲しかったけど、受験で不合格だった当人より、受験に課金をしたものの不合格だった親の絶望の方が計り知れないだろう。周囲の目や、かかった費用が無駄になったこと。(不合格は無駄ではないという意見をよく目にするが結果論としてどこも受からないで何も思わない親はいるだろうか。)体調や、問題との相性だって、運だってあるから、受験は頑張れば必ずしも報われるとも限らない。課金した親からしてみたらギャンブルに近いものもある。でも私が仮に親になったとき、その中学受験を自分の子供にさせたい。自分のリベンジだか、その子のためだかは定かではないけれども。
中高一貫の女子校を、卒業した。中堅レベルの大学も、卒業した。正社員で、会社員も経験した。しかし、一年は頑張れるものの、それ以降は続かないのが現状で、今の会社を休職していることなんて、親には絶対に言えない。
父親はどうせな、と鼻で笑うだろうし、母親は、あんなに良い会社なのになんで頑張れないの、と悲しむだろう。良い会社もなにも、おっパブで働いてた時にコネで入れて貰った会社だ。不細工低学歴が、身体を張って乳でおっさんに評価してもらって入社した会社である。でももう、そういうのも疲れたよ。
もうだいたい分かる。次の壁が、20代で良い男を捕まえて結婚することだって。疲れた疲れた疲れた。いつになればゴールがあるの?なにをすれば正解なの?あと何年生きればいいの?整形して可愛くなったら評価してくれるの?また正社員で働いて、高学歴で優しい男と結婚すれば周囲や世間は評価してくれる?
12歳の記憶は、26歳になった今でも、昨日のことのように思い出す。
2月1日に合格率80%の学校に落ちて塾に泣きながら電話したこと。2月2日に雪の中遠い学校だから朝早くて真っ暗な中、タクシーに乗ったこと。2月3日に面接待ちの時に前の番号の子と友達になったけど、その子しか合格してなかったこと。2月5日に最後の第三次試験があったけれども、第三次は倍率高いからどうせ落ちてるよ、と母親が寝込んでしまったこと。
中学受験をさせている親御さん方は、「中学受験」で検索してたどり着いたこのブログを見て、どう思うだろう。きっと、失敗例として見られているだろう。でも合格しても不合格でも、幸福な場合も不幸な場合もある。不幸じゃない人生に、自分の子供を導いてほしい。まだ12歳だ。思っている以上に子供でも大人でもある。韓国は学歴社会で、受験に不合格で自殺、とかも少なくはないらしい。
中学受験で失敗しても高校受験、高校受験に失敗しても大学受験、大学受験に失敗しても就職がある。
就職に失敗しても、女なら若さで結婚しても世間は何も思わない。日本は韓国と違い、挽回の機会が、選択肢が、多くあると思う。不合格は嬉しいものではないけど、ショックで死なれるくらいなら、生きて現実と向き合ってもらうよう、見守るのも親の役目だろう。
半年の勉強で東工大に合格した父は、馬鹿な私の教育に感心なかった。期待された兄は浪人したけど、東大にも医学部にも受からなかった。必ずしも報われる教育は、ないのだろう。必ずしも報われてほしかったら、人間ではなくロボットを用意してほしい。失敗したからと責めても、結果は何も変わらないし、荒んだ精神、卑屈な考えを持ってしまうだけだ。それで気が済むなら別にいいけれども。
ニートになるくらいなら風俗でもやれ。」そう言った父に、その時の一言がショックだったことをいつか伝えたい。自分がなんでもかんでも上手くいってきたから、失敗ばかりの私が不思議なのだろう。そんなこと言うくらいなら、子供なんて作らなければ良かったのだ。「本当に生まれてきたくなかった」と遺伝の病気で入院したとき言ったら「せっかく生んでやったのに何を言ってる」と言った言葉が見当違いだと言うことを、いつか分かってもらいたい。人間の考えは変わる、という言葉が存在する限り。不妊治療で無理矢理作られた子供だったから、本当は生まれたくはない意思があったのに、無理矢理失敗作として作成されたのだろうか。
私は援助交際もしたし、おっパブでも働いたし、パパ活もしている。本当に人生楽に稼げるんだとしか思わなかった。ショックな気持ちも、もはやなかった。社会に揉まれる苦労と比べたら、大したことがない。「あーこんなに楽なのになんでみんなしないのかなー」としか思わない。これがおかしいことだっていうのはわかっている。でも、自分を止めることが出来ないのだ。友達は、いないに等しい。誰からも連絡が来ない。みんな私のことが嫌いなのだろう。
まだ将来のある子供がそんなことをして嬉しい親がいるのだとしたら、死んだ方が良い。私はもう手遅れだ。26歳で、若くない。自分自身が変わる努力をするしかない。
成績しか取り柄のないブスは、狭いコミュニティでちやほやされても、社会に出て現実を知ってほしいし、もう色々とやり場のない怒りしかない。
2月3日の今日。不合格した学校の受験の日だ。毎年、一度も忘れたこともない。女子校特有のネチネチした校則も厳しい環境ではなく、自由な国立の中学に合格していたらこんな今のような姿はなかった?考えても無駄な問題だ。終わったことだから、この一言に尽きる。大学受験であの学校は推薦もほぼなく、どこに行っても苦戦しただろう。
上手く生きれなかった罪滅ぼしで、今日はデパ地下で恵方巻を買って、母と恵方巻を食べた。今までは何でもしてもらう側の、子供だったから。大人になったからもう大丈夫だからね、心の中でそう呟き、中学受験をさせる親達の気持ちに、少しだけ近づいたような気がする。